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haiirosan's diary

散文とか

「僕の昇天――或いは僕の生」 短編小説

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 鈍色と排気ガス、そして情念に満ちた都心から、両親曰く僕の「療養」の為に引っ越して来た、海辺の小さな田舎町。

 不気味な案山子や錆びた看板、倒壊したバラック小屋が不規則に建つ国道。活気無く寂れたシャッター街や、海岸線に置き捨てられた漁船や廃車の群れ。そして、他所から来た僕らを好奇の目で見る年老いた住人と、朝も夜も関係なく、虚ろな目をしながら非生産的に騒ぐ年若い住人。

 この町に越してから、まだ一カ月も経っていないが、都会とは性質の異なる暗さと絶望感に辟易とした。だが、町を移動する車内から見た、永延と広がるかのような瑞々しい田園地帯と、世界の果てまで続くかのような青い碧い海の途方もない美しさは、ビルの群れに閉ざされた内陸の街には無いものであった。特に海の無い場所で生まれ育った僕にとっては、海という存在の持つ魅力に少なからず囚われたのだ。

――寄せては返す、静寂と喧騒の狭間のような波音が響く六月の海辺。初夏の澄み切った白昼の蒼い海から一変して、夕空から零れ落ちる赤い血のような色彩が滲む午後五時。時折飛び交う水しぶきの爽やかさと、柔らかに素肌を愛撫する、温く滑らかな砂に溺れるような感覚――

 理由なき反抗を繰り返した十代、理由なき憂鬱に襲われた二十代、そして訪れた、ひどく現実的な挫折と諦観。僕はいつしか学生であることも辞め、社会に身を投じることも出来ずにいた。月に一度の通院を除いては、自らの部屋から外に出ることが出来ず、出る気も起きず、現実での極少数の他者との関係も全て断ち切った。インターネットがあればいい、漫画と本があればいい、ゲームがあればそれで楽しい。

 あの海を見るまでは、この田舎でもそうやって生きようと考えていた。誰にも関わらず、どこへも行かず、小さな部屋に独りでずっと。

だが今は、引っ越してきた二週間が過ぎた頃から、自らの家から程近いこの海岸に、夢遊病者の如く半ば無意識に訪れている。

 海鳥のどこか哀しげな鳴き声。まるで別の世界で響き渡るような、か細いサイレンの音と、通りすがる自動車や、草臥れた街の織り成す不協和音。曖昧なタイミングで唸る、健やかな子供達に帰宅を促す、疲れきった役場からの放送のくぐもったエコー……

……僕にはもう何も出来ないし、未来の設計図を描くことも出来ない。それ以上に、何かをするという根本的な気力や挑戦する意欲すら起きない。

 煌びやかで茫漠たるこの海を眼前にすると、不意に「僕」という存在の小ささ、そして全てから見放されたような孤独な感覚に陥る。

「僕という無価値な存在に一体何の意味があるのか!僕は一体何者なのか!」

――思いつめ、声が嗄れんばかりにそう叫んだ、或る日の逢魔が時。その声を聞きつけたのか、あるいは偶然なのか、どこからか見知らぬ少女が僕の近くに歩み寄ってきた。100m、50m、25m、10m、幻影のような姿が徐々に鮮明になり、そして眼前で立ち止まった。

「あなたはいつもここにいるの?」

唐突に、だが澄み渡るような声でそう呟いた少女は、真っ赤な唇と光の無い大きな瞳、そして、前髪を切りそろえた黒髪のおかっぱ頭をしていた。まだ十代半ばと思しき外見、身長は150cm程だろうか。華奢な身体に、海のようなコバルトブルーのワンピースと翡翠色のペンダントを纏い、砂色のサンダルを履いている。

茜色の夕日が映しだす二人の影のシルエット。少女の影が無軌道に伸び、酷く痩せた僕の影が小さく縮こまる。

僕は突然現れた少女にまごつきながらも、毎日この海辺に来ていると答えた。

「私はKというの。あなたは?」

先ほど以上に明瞭な声で名乗る少女。しかし、Kというのが本名では無い、或いは名字か名前の頭文字なのかもしれないが、僕を驚かせたのは、Kという名が、僕の本名のイニシャルと同じであったということだ。

偶然の一致、確かにカ行の名字や名前など幾らでもある。ただ、この見知らぬ少女が「K」と名乗ったことに多少なりとも親近感が湧いたのであった。

「はじめまして、僕もKと言うんだ」

僕はどもらないように、努めてはっきりと返答した。

「ふーん、そうなのね。私と一緒だ。けれどアナタ、今にも死にそうな声をしているのね」

Kは小さな唇を無邪気に歪ませて笑みを浮かべ、また口を開いた。

「どうしてアナタは毎日ここに来ているの? 海や夕日が好きだから? 何もしていなくて暇だから? それとも……昔の小説家や物語の主人公みたいに入水自殺をしたいから?」

Kはそう早口でまくし立てると、暗かった瞳を輝かせ、僕の顔を上目遣いにジッと凝視し始めた。

「うーん……なんでだろう……何もすることがないから、かな……」

 入水自殺、その単語に一瞬胸が苦しくなったが、深く黒ずんだKの影を見ながら、何とか返答をした。

「そうなのね!じゃあ私と一緒だ。私も毎日何もすることがないし、この海岸で見る夕日と海がとても綺麗だから……ねえ、明日もここに来るでしょ?明日もまた会おうよ!」

 Kは嬉しそうに言うと、僕の返答を待たずに踵を返した。そして、Kは砂浜を軽やかに駆け抜け、まるで海の蜃気楼のように消えかけたところで一瞬だけ振り返り、笑顔で僕に手を振った。

 Kの姿が見えなくなり、僕は一人で沈みゆく夕陽と、彼方に見える島を眺めている。いつもは絶望的な気分を助長させる、赤紫色に染まる空と雲。そして激しくなる波と共に黒く濁りゆく海の色。だが、夜を越えて明日が来れば、またKに会える。そう思うと、ほんの少しばかり心が安らぐような、そんな夕暮れの終わりを感じていた。

 

 翌日、僕は夕暮れが訪れる少し前に、いつもの場所を訪れた。

 町の暗く澱んだ空間とは別世界のように、梅雨の狭間の暖かな太陽と、瑞々しい空気に満ちた海辺の世界。見上げれば、雲ひとつない紺色に橙が重なる空、その赤と青のコントラストが美しい汚れなきキャンバスを、飛行機雲と鴉の群れが緩やかに白と黒を描いてゆく。

 昨日以上に穏やかな海は、思い出したかのように時折小さな白波をたてるのみであり、波打ち際では小さな子供達が、母親と思しき大人達と無邪気にそして喜びに満ちた表情で水遊びに興じている。

 嬌声と歓声、名前を呼ぶ優しげな声。浅瀬の水面に浮かぶ、イルカの形をした浮輪、西瓜を象ったビーチボールが潮風に乗ってフワリと舞い踊る。

 そんな光景を見ていると、幼かった頃の純粋だった頃の記憶が何となく蘇る。二十数年が経った今、僕の心には灰色の埃が積もり、輝かしく無邪気な未来への希望も、無惨に朽ち果ててしまった。

 今は無垢な少年少女達も、あと十年あるいは数年後には荒んで、心を失くしてしまうのか。

 そう思うと、僕の濁った視界に映る優しげな空も海も、突如として乱れ狂い、彼らを容赦なく呑み込んでしまうかのような、そんな幻覚すら視えてしまった。

 曇天の暗い空から降り注ぐ雷と大粒の雨。渦巻く波と吹きすさぶ暴風の中で、嬌声がつんざくような悲鳴に変わる。にこやかな大人達の顔が歪み、そして、もがき苦しむ桃色の手足が無情にも青白い死体の色へと変わりゆく……。

……今ここで死ねば、その瞬間は苦しくても、幼い彼らは幸せのまま昇天できるのか?僕のような、死んでいる様に生きている人間に成り下がるよりは……。

 ふと、昨日の少女が口にした「入水自殺」という単語を思い出す。

 僕が惹かれるこの海に抱かれて死ぬのなら、僕は幸せなのかもしれない。けれど、膨張した醜い水死体を晒すことになる上に、水に呑まれて死ぬというのはとても長い間の苦しみを享受しなければならない。それに美しい海を僕の汚れきった血と肉、そして魂で穢してしまう……。

 思えば、二十歳を過ぎてからの僕は、幾度も死ぬことを想像していた。

 例えば、近所の子供たちや大人達からも可愛がられていた黒猫も、無慈悲な車道に無軌道に飛び出して、いとも簡単に死んでしまった。そして、自宅で飼っていた二匹の金魚も、飼い始めて一週間ほどで水槽の水面に浮かんでいた。

 それらの光景を目の当たりにすると、生は限りなく儚く、死はいとも容易くやってくるものであると思った。寧ろ、今の生は死後に昇天する為の試練であり、憂鬱と下らなさに満ちた前夜祭なのではないかと。

 ただ、それでも自ら死を選ぶことは出来なかった。遺してしまう父や母、死ぬ時の恐怖感や痛み、そして本当に「あの世」があるのか、もし無いとすれば、死んでしまった後は夕景も海も無い、真っ暗な空間に永遠に閉じ込められるのではないか。そんな考えが常に頭をよぎっていたからかもしれない。

……気づけば空は深い赤と黄色に染まり、夕暮れ時が訪れていた。

 海辺で遊んでいた子供達もいつの間にかいなくなり、夕日が照らす海面は少しばかり波が高くなり、風も強くなり始めた。そして、誰もいなくなった海岸線は風音と、無限に繰り返す潮騒のみが物悲しげに響き渡っている。

 結局、あの少女は来ないのかな……。今日も来るというのはあの子の気紛れだったのか……。

 そう思っていると、海を見つめる僕の背後に、不意に人の気配を感じた。

「こんばんは。今日も来てくれたのね」

Kの声だ。振り返るとそこには昨日と同じ服装の彼女がいた。だが、砂色のサンダルは履いておらず裸足であり、銀色の縁に、海を模したかのような大きな紺碧の宝石を一つはめ込んだ、昨日とは異なった美しい首飾りを身に着けていた。その輝きと色つやは、恐らくまだ少女であるはずのKに大人びた魅力をもたらしており、僕は彼女と首飾りをまじまじと見つめていた。

「綺麗な首飾りだね、それはお母さんやお姉さんのではなく、君のものなの?」

 気になった僕が問いかけると、Kはニッコリと笑って頷く。

「そう、私のものだよ。私が住んでいる場所でつくられたものなの」

 僕はこの町でこんな美しい首飾りが造られているのかと思い、彼女に尋ねてみた。すると、

「ううん、違うの。私の住んでいる場所は――」

そういって指をさした先には、夕日によって赤美しく染めあげられた空と海があった。

「私は天国から来たの」

Kは何の迷いも無く、そう答えた。

「……天国? 一体どういうことなんだい?」

困惑した僕が彼女に問うと、先程まで笑顔だったKの表情が曇り、ぽつぽつと語り始めた。

「私が憶えているのは、学校に行くのがとても嫌だったこと、お父さんもお母さんもいつもいなかったこと、毎日一人ぼっちだったこと。だから本当の名前は忘れたの。誰も呼んでくれないし、必要ないから。いつだったかな、図書館で読んだ昔の小説で、私の名の元なのだけれど、Kという人の影が人格を持ってそれが天に昇っていくという話。その人は溺死するのだけど、魂は天に昇ったって書いてあるのをみたら、私も天国に行きたいって思ったの」

 暗い表情のままで、僕を見つめながら語ったKは一呼吸置くと、顔を海の方へ向け、また話し始めた。

「小説には月の光の影がいいと書いてあったけれど、私は夕日の作りだす影が好きなの。真っ赤な世界に私の黒い影が映って、まるで生きているように揺れていると、私の影が存在する、もう一つの世界があるんじゃないかって。ある日、行くあてもなく海岸線を歩いていたら、私の影がぐんぐん伸びていって、海の中に入っていったの。その影を追って、私も海の中へ……」

 哀しいような嬉しいような、どこか曖昧な表情したKは再び僕の方へ顔を向ける。

「水の中は息が苦しかったけれど、私の身体は温かな赤と爽やかな青に包まれるような感覚になったの。そして、海の底で伸びてゆく影と距離が近づいて、ついに影と一つになったの。すると私の身体はフワリと浮かんで、神話のイカロスのように、真っ赤な太陽に向かって突き進んでいったの……気づいたら私は砂浜に打ち上げられていて、この首飾りを身に着けていたのよ。それ以来、私は太陽が出ている時に首飾りを着ければ、天の上の世界とこの世界を行き来することが出来るようになったの」

 話し終えるとKは口元に満面の笑みを浮かべ、大きな瞳を輝かせていた。

「その話が本当だとするなら、君はもう人間ではないの? それに、天の上の世界はどうなっているの?」

 僕が問いかけると、Kはゆっくりと口を開きはじめた。

「その世界のことは秘密よ。だけど、とても穏やかで優しい場所。あなたもいつか行けるわ。だって私と同じ孤独な目をした人だもの」

「私が人間かどうかは――ねえ、私の手に触ってみて」

 そう言うとKは、白く細い右手を僕に差し出した。

 恐る恐る僕も右手を差し出し、彼女の右手を握ろうとした。だが、いくら触れようとしてもその手に触れることが出来ず、虚空を掴むのみであった。

「私には実体がないのよ。姿形もあるし、こうしてあなたとお話も出来るけれど、あなたに触れることが出来ず、あなたに触れられることもないの。現実では溺れ死んでいるし、幽霊みたいなものなのかな……」

 Kは残念そうな表情を浮かべながら、そう呟いた。

 幽霊のような曖昧な存在。僕にとっては未知の領域であり、少しばかり恐ろしくもあった。けれど……。

「もし僕が君のいる世界に行ったら、君に触れることが出来るのかな……?」

 唐突な僕の発言に驚いたのか、Kは少しばかり頬を赤らめた。

「そ、そうね、わからないけど……私も一緒に行きたいし、手伝うことも出来る。けれど、あなたの意志が少しでも揺れていれば、あなたが溺れ死んでしまうだけ。強い意志が無ければ、天国に行くことは出来ないわ。明日から一週間は曇りや雨で、しばらくはこの世界に来ることができない。その間によく考えて……」

 そう言うと、Kはどこからか昨日のペンダントを取りだして、僕の首に優しく掛けた。

「これ、あげるね。もしあなたが強く、活発に生きようとすることを選ぶなら、それも正解かもしれないから。けど、このペンダントを持っていれば、たとえ会えなくても私のことを忘れないし、あなたが本当に天国に行きたいと願った時はいつでも迎えに行くよ」

「……そろそろ夜になるから私は行くね。夕暮れの海辺でまたいつか会いましょう」

言い終えたKは、夕闇の赤と黒に溶けこむように飛翔していった。そして、空の彼方に消えてゆくまで、僕も彼女もずっと手を振り続けていた。生きることを選び、もう会えないかもしれないという想いと、昇天することを選び、またすぐに会えるかもしれないという想いを胸に抱きながら――