haiirosan's diary

散文とか

平行世界の夏は冬

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――八月の朝、夏の熱気に浸された身体に、降りしきる不可思議が沁みる。

 冷たく染まった道を歩く人々はアロハシャツ、水玉模様のワンピース、足元はスノーブーツと思しき人も多い。手に持つのは、ビニール傘や蝙蝠傘、或いは唐傘。

 梅雨が明けてからというもの、無機質な笑顔の気象予報士は「今日もよく晴れて、とても暑くなるでしょう」を毎朝繰り返していた。   

そう、それ以外に言うことはないという口調と表情で。

 そして、今朝もまた、ニュースの気象情報は同じ台詞を繰り返した。

「今日もよく晴れて、とても暑くなるでしょう」と。

 それにも関わらず、太陽は舞台袖に隠れ、季節はずれも度が過ぎた天候に覆われている。

 今日が本当に七月の真夏日なのか。それともいつの間にか冬が来てしまったのか?

 携帯の画面を開く。そこには「2017年7月26日」と表示されていた。カレンダー、朝のニュース、それに自分自身の感覚と同じ、正常であるはずの年月。けれど、その数字や文字は何故か、ひどい文字化けを起こしたかのように淀み、ざらつき、歪みきっていた。それは、これから起こる悲劇を予知しているかのように……。

 

 2

 

 7月が終盤を迎えても、暑さは終わりを迎えるどころか、さらに勢いを増していた。

 地獄の最深部へと近づいているかのように、年々上昇する気温、最早人間の体温に限りなく近い日々の気温。

かの予言者が「世界の終わり」を予言するなら、1997年7の月じゃなくて、2017年7の月でしょうって、摂氏36度に揉まれながら独り呟く。

雨はおろか、曇りすら失われた橙色の日々。まるで異国の砂漠に置いてきぼりにされたかのような熱風と蜃気楼。肌を焦がす砂埃、彼方に視えるヤシの木と翡翠色の湖。此処がビルの群れが立ち尽くす東京だということを忘れてしまいそうになるくらい、それらが視界でとぐろを巻いていた。

 

けれど、そんな夏の日々と夢幻を掻き消すように、曇天の今朝は、冷たい雪が永延と降り続けている。

覚めることのない夏の悪夢が、熱や暑さに対する逃避願望を具現化して、こんな光景を見せているのか。そんな風に初めは思った。

だが、綿のような柔らかさ、 澱 ( よど ) んだ屋根やアスファルトを清廉に染める白さ 。それに、 肌に触れれば半透明の美しい身体を顕わにする結晶。

その質感、その色彩。作り物でも無く、別のナニカでもない、本物の雪。これは夢でも幻でもない、現実の風景なのだ。

しんしんと降る雪。時が経つごとに、焦熱に寒冷が無邪気にキスをしてゆく。そして、歪んで病んだ各々の痛みを、触覚或いは視覚で癒す健気な雪。

早朝、吊革で手首をつる匿名の彼女も、毎朝足首をつる匿名の彼も。それに、首を吊らされている無数のてるてる坊主も、どこか楽しげな表情を見せる。

バニラアイスのように甘い登校時間。元気な小学生、陽気な中学生、朗らかになる高校生。赤いランドセルが紺に染まることも、セーラー服のスカートが濡れることもお構いなしだ。

そして、日射病に倒れ伏していた野良猫や、水を求め彷徨い続けていた野良犬も、歓喜のソプラノやテノールを響かせている。

私もまた、夏に降る雪に興奮と喜びを抑えきれず、サンダルも傘も捨てて、裸足になって空を見上げた。

曇天というにはあまりにも純白で美しい空の色、永遠に続くかのような、無限に広がる白いパレット。

誰もいなくなったプールサイド。波の音だけが響く海辺の寂しさ。アイスクリームショップでは 閑古鳥 ( かんこどり ) が鳴き、自動販売機は稼働を止めたかのように無言だ。

歓喜と熱気の人々、無言と無音の夏の涼。

 

――やがて、その空を這い回り始めた、蟻のようなヘリコプターの黒い影の大群。パイロットも季節外れの雪に驚嘆したのか、規則的だった飛行がウネリぐらり、揺れる。

暫らくすると、彼らは低空飛行のち身近な高速道路や地表に激突し、爆音と共に黒煙と炎を撒き散らし始めた。

火と灰の臭い、雪に交わる橙色の波。唐突にあがる、いくつもの鮮やかな花火のような火柱。

誰かにとっては夏の風物詩、或いは夏の刹那が脳裏に想起されるような光景。人々は、それが現実的な重大事故だなんてことを忘れて、一様に拍手喝采を送る。

退屈な色と日常の炎上、病的に輝き続ける花火の火花。火が彩る抽象画のような、鮮烈な風景に見とれたままの人達に嫉妬したのか、雪は勢いを強め吹雪き始めた。

視界でうねる半透明の白蛇。臓器も無く目も無く、一心不乱に夏と世界に絡みついてゆく。瞬く間に汚れなきモノクロームの雪よりも、世界を汚すけばけばしい炎に鞍替えした人々の心身を窒息死させるかのように。

その無軌道であり純粋な息苦しさ。溶けたアイスキャンディーの虚しさ、泡の抜けたサイダーの切なさに似た感情を抱く私。

視界の遠く、あの燃えさかる夕暮のような橙を消せば、誰もがみんな、この降りしきる雪を再び愛するのか。

「清らかな白を愛せ! 獣のように純粋な雪を愛せよ!」

 そう高らかに叫んでも、その声は全てに対して無力であり、群衆の幼稚な関心を「私」にほんの少し傾けるだけであった。

 世界を掻きむしるかのように、より一層吹き荒れる雪。そして、雪が荒れれば荒れる程、心変わりを起こしてゆく人々。そう、もはや多くの人々の心には、雪に対する好意的な感情などなく、敵意或いは嫌悪感しかない。

 どこかのニュース番組のアナウンサーから発せられる、悲痛な中継の叫び。露わな肌を抱えながら走り去っていく少女、必死でまとわりついた雪を払い、屋内へと駆け込む少年。そうした人々を扇動する、消防車や救急車の悲鳴のようなサイレン。

 街頭スクリーンに次々と映し出される、相次ぐ交通機関の麻痺や、墜落事故の報道。それに、火災や雪の勢いがさらに強まっていること……。

 橙色と白の百年戦争。雪の子を火の粉が食らえば、その火の粉を雪の子が吹き消す。無限に輪廻するかのような、冷と熱が交錯し、斬り合う光景。

 最早、街の事物も人も、その戦いに携わる力などなく、運が良ければ傍観者、運が悪ければ被害者となっている。

 ある者は豪雪に抱かれ、体の機能も感覚も、そして心も奪われてゆく。また、ある者は猛火に焼かれ、身も心も無惨に食べつくされてゆく。そして、放置された車や建物は逃げる術も無く、次々に破壊されていった。

 雪と炎の戦いによって、秋のような、暑さと寒さが折半した天国のように快適な気温と化した七月。だが、その中で繰り広げられる光景は紛れもなく地獄となり果てている。

 八方塞の阿鼻叫喚な舞台。人的な力が限りなく無力なこの舞台の幕を下ろすことができるのは、袖に引っ込んだ太陽しかない。

 誰もがそう思い、そして、太陽が雲を引き裂いて、再び現れることを神に願った。そう、気象予報士が一カ月近く繰り返していた「今日もよく晴れて、とても暑くなるでしょう」の台詞を求めて……。

 

 3

 

……雪が降り始めて、一日が経ち、二日経ち、そして六日目を迎えた。

 積もり積もった雪は炎をも呑みこみ、無邪気にこの街を覆い尽くした。呑みこまれた炎も、消えるまで暴虐の限りを尽くし、ありとあらゆるものを焼き尽くした。

 そして、私も含め、逃げ遅れたが、生き残った僅かな人々。私たちは、雪が届かない高層デパートに逃げ込み、何所からかの救助を、雪を溶かす真夏の太陽の登場を必死で願っている。

 それにも関わらず、気象予報士はいつもの無機質な口調でこう発言する。

「7月31日、今日もどんより曇り空で、雪が降り続けるでしょう」と。