「境界のない海、冬瓜は秋に溺れるか?」
――それは或る秋の始まりの月曜日。鮑の柔肌、蕨の緑黄色、花火の「三」秒間に飽きられた3-14-7-682の消失点に立つ、上海路地で飽食と装飾に浸るモズク蟹のようなA.Aがうそぶいた台詞だった。
海辺の菜食主義者は微細な赤、黄、緑の色をパレットに載せて、それらを審美する。
例えば、片隅の冬瓜は僕らの童顔のように艶やかで、サイケデリック・ネオンの下、メロンソーダの誤認逮捕、トーチカで跳弾するトカレフ、トスカーナ・ペスカトーレ、ムール貝に隠されし真珠は偽りの一休虎虎と翡翠の零、雫に凍てつくフォスターの微笑……
ここで号外、寄生の終わりと始まりを語るDr.ドリトルの死
ノように、死んだ僕と伝記の君とで虚ろな目をしている此処、田舎の苺ハウスという密室のようで密室では無い、だって海水のように透明なビニールで覆われているから、目張りもメバルも春も窒息死しない程度の呼吸ができる、土色の海中田園。そこで僕らはいちごの姉妹には目もくれず、光に群がる蛾のように独りぼっちの冬瓜を愛でる。
けれど、ほんの30m先では麦藁の農夫が僕らを覗き見しているかもしれないし、おせっかい病の貴婦人がヒールで薄い被膜にαCmの穴を開けて、より鮮明に、何の修正も無しに僕らの無垢を見続けるかもしれない。そう、朝も昼も夜も夜中もモナカ・ICEが溶け湿気っちまうまで「ずっと其処にいた」100人の村の亡霊。
すき焼きは豚肉でやる
すきっ歯の鋤 化粧に百姓はむせ返る
そんなコンプレックス・スープレックスが失敗すれば、ルーズソックスの娘が群れる新宿実況劇場もお終いさ。
冤罪?有罪!そして否定――
――冬瓜に話を戻そう。僕らが愛したフリをした冬瓜は数十年後旅に出た。Effectの効いた白い肌、Mos Greenのコート、彼は素朴なままで、パスタの原料になるのかと。あの摂氏80℃の伊ノお飾りか下町のジェノベーゼのおまけになるなんてさ。
水平線の誇大妄想、青い安息日、白昼の怒りに満ちた僕にはどうしても赦せなかったけれど、三等水兵の僕はMexico海抜3mで「かもめのジョナサン」がくれたタンドリーチキン&ピラフとSPAMの塩と油に足をやられて動けない。誰か、誰か、僕にライムを!柑橘を!
目の前に現れた大玉西瓜、季節外れのそれは境界線なんて無いと偽善の笑顔を浮かべていた……